ねねの道から高台寺


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<ねねの道>舞妓はん?

 円山公園から高台寺に抜ける東山山麓の道は「ねねの道」と名づけられている。

 白壁に囲まれた豪壮な邸宅が目立つ夕暮れの「道」に、人力車が若い二人を運ぶ。草わらび餅と抹茶の茶店のたたずまいも新鮮で、客を誘う。

 人力車といえば、近頃流行している「舞妓体験」の衣装をまとった美女とそれに付き従う優男(やさおとこ)を見つけたので、追いかけてカメラに収めた。
 この変身プランは1万円前後が相場とか、お若い方はぜひお試しあれ!人生が変わるかもしれません。


<ねね・・・夫唱婦随の天下取り>高台院・北政所

 豊臣秀吉の正室で愛称「ねね」「おね」。

 秀吉を陰で支え、天下取りを助けた糟糠の妻。

 ねねは、尾張朝日村にて杉原定利の次女として生まれた。浅野長勝の養女となり、永禄4年(1561)14歳で木下藤吉郎(秀吉)に嫁ぐ。信長も賞賛した才媛・気丈夫で、領内統治に対しても内助の功を発揮し陰から秀吉を支えた。また秀吉も彼女を立て、おろそかにしなかった。少し前に放映されたNHK大河ドラマでも、そんな「ねね像」が余すことなく表現されていた。

 惜しむらくは子供ができなかった。秀吉は生涯なんと16人の側室をもったが、子供が授かったのは淀君との間の二子のみ。老境に入ってできたのが奇跡とも思えるが、ねねが若い時代にきちんと男児を産んでいたら日本の歴史はずいぶん変わっていただろうと思う。


 徳川のように鎖国はしなかった?だろうからもっと早く近代化はなされただろうし、海外との交易も盛んに行われ、キリスト教の布教も早かっただろう。政治的にも経済的にも、文明も文化も宗教も、ずいぶん変わったに違いない。

高台寺の枝垂桜

 脱線してしまったが、晩年のこと。
 天正13年(1585)秀吉が関白に就任すると、「北政所」(関白の妻の意)と呼ばれるようになり、天皇家と豊臣家の折衝役を務めている。
 1598年秀吉の死後、淀君が豊臣の世継ぎ秀頼を連れて大坂城に移ってきたときに、尼となって京都三本木に住み、「高台院」と号した。関ヶ原の戦いでは親徳川的な行動をとり、豊臣家滅亡後は徳川幕府から化粧料一万三千石を与えられた。


 高台院は家康とも仲が良かった。高台寺創建の話を漏れ聞いた家康は、ただちに酒井忠世・土井利勝・板倉勝重ら譜代の重鎮をさしむけ、最大限の協力をした。

 寛永元年(1624)9月6日、余生を過ごしたその高台寺にて没。享年76歳。


<高台寺>

夕暮れの八坂の塔 東山山麓に静かにたたずむ鷲峰山(じゅぶざん)高台寺は臨済宗建仁寺派の禅寺。

 「ねねの道」を左に折れ、それほど長くはない石段の参道を上りはじめた。右手に「八坂の塔」が暮色の灰色の中に浮かんでいる。
 この塔(法観寺)は聖徳太子創建といわれる古い寺だが、いまや東山散歩のシンボルとして観光客に親しまれている。

 さて高台寺の境内に入った。庫裏の左側で入場券を買い、実はこの入場券が混雑でなかなか買えないという裏情報が流れていたが、そんなこともなく無事入場すると、そこは東山の中腹にあたり、京都の町が箱庭のように見渡すことができた。

方丈前庭の夕刻

 現代の高台寺は、静かに晩年をすごしたいと願った高台院の意思とは裏腹に、観光名所の名をほしいままにし、まさに数珠つながりの人の群れと化している。とくに春4月桜花爛漫のころである。
 華やかさは聞きしに勝り、高台院よりむしろ、万事派手好きであった秀吉が地下で喜んでいるのではなかろうか。


<感動の予感>

方丈前庭の幻想的光彩

 実は友人よりの一通のメールがわたしを高台寺に招き入れた。そこには夜の高台寺の幻想がことば少なに綴られていた。

・・・・・息を潜めた静寂の向こうに、心躍らせる感動の予感があった! 
 階段を駆け上り、寺の脇、何の変哲もない薄暗い入り口に独り佇み、「失敗だったか」…一瞬、感動の予感が萎んだ・・・・・・

 ライトアップという月並みなことばは使いたくない・・・・・その庭に描き出されたのは、一瞬ホログラム?と感じたのだが「四神相応(しじんそうおう)」のテーマで描き出された幽玄の世界。

 四神相応とは、「平安京が、都にふさわしい東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武という地相をすべて備えている」という意味で、方丈の庭はそれを光で幻想的に表現した。

 現代の光技術と古の重要文化財の饗宴は見ごたえがあった。


<高台寺伽藍めぐり>


■池山
全体として3150坪の敷地に、小堀遠州が作庭した「池泉回遊池」が広がる。
偃月池(えんげついけ)には鶴島と亀島が浮かび、鶴が羽を開いた形はここにしかないという。国の史跡名所の指定を受けている。

■開山堂・・・重文
高台寺第一世の住持、三江紹益禅師(1572−1650)を祀る塔所。
左右壇上には木下家定(ねねの兄)、雲照院(家定の妻)等の像も安置されている。礼堂部中央の彩色天井には北政所の御所車の天井、前方の格子天井には秀吉が使った御船の天井が用いられている。

開山堂と観月台

■観月台・・・重文
檜皮葺きの四本柱の建物で、三方に唐破風をつけた屋根の下から月を眺めるための建物。

開山堂と霊屋

■霊屋(おたまや)・・・重文
秀吉と北政所をお祀りしているところで、厨子内左右に秀吉と北政所の木像を安置している。須弥檀や厨子には、華麗な蒔絵が施され世に高台寺蒔絵を称され、桃山時代の漆工芸美術の粋を集めている。

■臥龍廊
開山堂と霊屋を結ぶ階段で、屋根を見ると、龍の背に似ているところから命名された。

茶席・遺芳庵

■遺芳庵

灰屋紹益と吉野大夫との好みの茶席であり、鬼瓦席とともに高台寺を代表する茶席として知られている。

■傘亭・時雨亭・・・重文

利休の意匠による茶席であり、伏見から移築。傘亭は竹が放射状に組まれ、唐傘を開けたように見えることからその名がつけられ、正式には安閑窟と呼ばれる。
時雨亭とは土間廊下でつながっている。

なぜか、こちらの茶席二箇所は撮影禁止となっていた。

<撮影禁止>

 要所に学生アルバイトの女性が立ち、カメラ撮影禁止のチェックをしているが、これは興ざめに感じた。
 重文であるが、建物「傘亭や時雨亭」すらも撮影禁止であった。

 なぜ?ルーブルのモナリザですらシャッターOKなのに。
 最近わたしは「なぜ?」と意地悪く質問することにしている。文化の底辺を広めるためにも国宝や重要文化財はどんどん撮影を許して、幅広く知らしめるべきものではないか?

 禁止の理由が、たとえば国家秘密であったり、演技を妨げるスポーツであったり、著作権や肖像権を侵すものなら仕方ないが、個人で楽しむ目的で撮影するくらいなら・・・・
 彫像などは、「魂が抜けるから・・・」などという旧時代の理屈が通じないことは自明の理。撮影した写真を裏の世界で出版してしまう不逞の輩がいる?!性悪説?

 急激に文化先進国に変貌した日本人は変にいい子ぶって、なんでも撮影禁止が当たり前と誤解している節がある。

<高台寺創建のこと>

 高台寺はもともと慶長11年(1606)、ねね=北政所(出家して高台院湖月尼)が秀吉の菩提を弔うために開創した。曹洞宗の禅寺であったが、北政所が帰依した「三江紹益和尚」によって、(三江和尚は臨済宗建仁寺派で修行された名僧だが)転派が認められたのは寛永元年((1624)のこと。
 和尚は北政所の兄・木下家定とも親交があり当時の民衆からも慕われており、北政所の余生の良き相談役ともなった。

京の町を見下ろす また高台寺伽藍塔堂の成立を分析すると以下のようになる。
 まず伏見城から運び込まれたもの、次に北政所在世中に築き上げられたもの、そしてその後追悼のために加えられたものの三要素で構成されている。全盛期の高台寺の全容は、伏見城からの殿舎移築を基盤にしただけあって、豪華絢爛を極めたようだ。

 その後京都の寺社の宿命で、江戸中期に火災に遭い多くの堂宇を失い、現存するのは開山堂(旧寺仏堂)と霊屋(おたまや)、傘亭、時雨亭、表門、観月台で、それぞれが重要文化財に指定されている。

<続く> 「清水寺ライトアップ」へ

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